ここで、疑問が生まれてくる。マズローの理論が正しいとすると、社員が被雇用者としての安全・安定の欲求を十分に満たせない今日、「自己実現の欲求」を満たすことはたして可能なのだろうか?
所詮雇用に不安を感じている社員は会社にしがみつくことや、他のより安定した職場を探すことしか考えないのだろうから、企業としては不正やミスを起こさないようにきちんと管理し、余計な期待をせずに会社が決めた目標達成、価値観の枠に強制的にでもはめ込んだほうが効率的だ、と考えたとしてもそれは間違ってはいないようにも感じる。であれば、人財育成やなど、また景気が良くなってから考えればいいのではないだろうか?
前述した「社員エンゲージメント」についても、別な疑問が生じる。「社員エンゲージメント」が組織のパフォーマンスに大きく相関している、という事実は納得できる。しかし、組織が向かっている方向性と自分の人生・信念との間に一貫性を感じられない場合はどうなのか?会社の事業に自分の人生にとって大切な意義を感じられないまま、プロ意識から熱意を持って仕事をこなし、この四段階のエンゲージメントプロセスを駆け登ったとしてもそれは本当のエンゲージメントと言えるのだろうか?組織が社会的に望ましくないと思われる活動をしている場合でもとにかくその職場にエンゲージしてしまうのでは盲目的なエンゲージメントではないか?それは社会人として正しいことなのか?
これらの疑問は私が実際にセミナーなどで「社員エンゲージメント」について話した時に参加者から受けた質問である。
これらの疑問に対して「神経意味論」「メタ・コーチング」の創始者であり「フレーム・チェンジ」(春秋社刊)の著者でもあるマイケル・ホール博士は「自己実現」については次のように新しい解釈をしている。
下位の欲求が十分に満たされなくても、一、成長欲求の次元まで上昇した人はその実現欲求の一つに「意味を創出し、実現させたい」という欲求が加わることになる。そうするとその「意味」はより下位の欲求に関する信念・意味となり、欠乏欲求を感じる時もその意味を通じて認識するようになるのである。つまり、安全・安定の欲求が十分に満たされていない場合でも単純に生物学的欲求として認識するのではなく、自分にとっての意味・意義というフィルターを通して認識することになる。その結果、不況の中の不安を感じながらも、自分の社会人としてのキャリア、あるいは人生の意味を通して、「将来の自己実現のために、ここは我慢のしどころだ」とか「この苦境は人生にとって意義のあるものだ」と認識することが出来るのである。つまり、自分なりの「意味」によって体験の認識を変更し、下位の欲求に支配されることはなくなるのである。
これは、例えば誰も好んでやりたがらない筈な乳児のオムツ替えを多くの親はその意味を感じることによって積極的に行うことができることにもたとえられる。
「社員エンゲージメント」も個人がその組織の中での仕事が自分の人生にとって意義深いものであると感じるかどうかが重要となってくる。自分がどのような「意味」を見出しているのか、自分の人生にとってどのような「意義」があるのか、という問いを自分に投げかけ、認識することによって、盲目的なエンゲージメントではなく、自分の人生観、自己実現欲求と一貫した本当の社員エンゲージメントを抱くことができるのだ。
そんな本当の「社員エンゲージメント」を高めるために企業は何をするべきなのだろうか?
勿論、企業としては社員に出来るだけ不安を感じさせないように努力する必要がある。また、企業のビジョン、ミッションの浸透プロジェクトを行う価値も十分にあるだろう。ギャラップ社のエンゲージメント項目などに沿って改善プランを行うことも有効であろう。しかし、忘れてはならないのは、社員個人がその会社での業務に「意味」「意義」を感じていることが重要だということである。
コーチングを社内で実施している企業においては、コーチはクライアントに対して自分の「意味」「意義」について考えさせ、受け止める機会を持つ必要があるだろう。また、エンゲージメント調査を行っている企業では「あなたはこの会社での業務にどのくらい意味を感じていますか?」「この会社での業務はあなたの人生においてどの位意義深いものですか?」などの質問を加える必要があるだろう。
いずれにして、トップダウンの施策では企業の文化は作られない。各現場でのスキル、知識、才能に加えて各人の想いを真摯に吸い上げ、それを束ねることによって、本当に社員が「意味」を感じながらエンゲージできる職場が築かれるのである。